昭和五十七年八月十九日 朝の御理解
御理解第九十三節 「氏子は神の守りをしておる者を心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておることはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならなねぞ。」
大祭の翌日ですから、十七日からここで英語の講習会があっております。勿論、英語の先生方ばかりの講習会でございますそうですが。こちらに見えとられる米国人の方、それから英国の方の先生方が見えておられますが、中に松本という先生が、もうそれこそ、夢の対談というあれは、ま、ように言っとられますが、めったに頂く事の出来ない。ま、講習会らしいですね。会費は、やっぱ三万五千円だそうですから、やっぱり偉い先生方だろうと、ま、思うて居りました。それで松本という先生が、昨日一昨日公演にかかられる前に胃痙攣を起こされ、それで医者にすぐ紹介してくれと、それを天野先生がいろいろ御用さしてもらっとるから、「先生、お医者に行く前に親先生にお願いをなさいませ」と言うて、ここへその事のお届けに出て参りました。それから御神米を下げさせて頂いて、それから御神米を頂かれたら、こう落ち着かれた。しかも大変、こう気分的におかげを頂いたから、「もう医者は止めましょう」と言うて御神米を胸に頂いて公演をなさったという事でございますが、昨日本当に、ま、そういう有り難いおかげを受けて、昨日ここに御礼に、丁度私が、朝のお届けが終わって退がろうとする前に御礼に出て見えました。お話しを聞きますとやっぱり御縁があるんですよ。大阪の泉尾教会の三宅先生とは、いろんな意味で信仰があられる。けれども正直言って三宅先生の御信心から金光教に対するイメージは、良いイメージじゃなかった。ところがこちらにおかげを頂いて、初めて金光教の信心が、まあ素晴らしいんだとかと言うような事が、ま、わかったという意味の事を言っとられます。これからも少し合楽の話を頂きたいというので、しばらく時間がございませんでしたから、ま、しばらくでしたけれども、ま、いろいろ私との、言わば対談でございました。先生が言われるのに、この方は、あの、ま、英語の先生では日本一の定評のある先生だそうですね。それでたくさんな著作、本を表わしておられます中に私は、これを頂いた時には、この人は偉いなあと思うたんですけれどもね。腹芸の論理という、言っとられます。腹芸、ね。日本人でもなかなか腹芸という事は、出来る人わかる人はおりません。それをなら、いかにベラベラ英語なら英語を話しが出来ても、ね。その腹までも、こ、感じれる。腹芸の英語と言うのでしょうね。腹芸の論理。私はそれにその、こ、頂いた時から非常に私は感心を持ちました。この方は違うな。腹芸の論理、したらお会いしてみると成程、違います。
夕食の時に、も、全然医者から酒類はいけんと言われるのを、天野先生が神様のお下がりですからと言うて、焼酎を差し上げた。ところがそれを頂かれたら、明くる日大変、こう爽やかで爽快であって、今日もこんなにおかげを頂いて、昨日のですか。公演会には、もう回答一番、合楽教会でこうして自分がおかげを受けた話を先になさったという事でございます、ね。ですから昨日ここでいろいろお伺いがあったり求められておるというか、感じておられる事を聞かして頂いたが、やはり違います。ま、これは例えば、私と同じ金光教でも、なら泉尾の先生の私とのその在り方というのが、根本的に違うと言うてもよい位に違うわけなんですよね。ですから、も、ま合楽の在り方に、ま、ある意味でそういうおかげを頂かれたという事もありましょうし、ま、傾倒される事にこれからなるだろうと思います。中にこの神様は、情の神様ですか。智の情、智とこう言うですね。あれは誰ですかね。偉い文学者の方が言った言葉に、「情に棹させば流される。血に走ればかたくなる」とかあんな言葉がありました。夏目漱石でしたかね。で、私は申しました。あの情でもなからなければ智でもないです。心です。ま、それをもっと言うならば、神心ですと言うて、丁度先生がそこで待っておられる間に、ここに子供を連れて、赤ちゃんを連れてここにお取り次ぎを願う方があった。私がいつも赤ちゃん連れてくると赤ちゃんの頭を撫でたりさすったり、こう揉みくちゃにするようにしてからお取り次ぎさしてもらうんです。だから先生、あなたが今、ご覧になっとったように私の場合はたまには、その本当にもう、しわくれたお年寄りが参ってくると、そのしわくれた手を握って、こうさすって、なでさすりしたいような心が起こって参ります。とかと言うと、ま、素晴らしい立派な、なら信者が参って来ても例えば、ほけん事して、もう知らん顔しておるといったような時もあります。だから結局、情でもなからなければ智でもない。言うならば、神心なんです、ね。なら今日の御理解にありますように、ね。信者に上下をつけたり、ね。人間には裃があるけれども神には裃がないとおっしゃるように、そこんところにこう、バランスの取れたお取り次ぎが出来るという事になる。も、こんな年寄り、も、こんな子供、これは身なりが汚いからと言ったような事じゃない。そういう時に、情以上の情とでも言いましょうかね。または智以上の智という事になりましょうか。問題は神心ですから、で、ま、私は合楽の場合はお取り次ぎをさせて頂いておると思います。合楽の御ヒレイの元はそこだと、こう思うです。昨日、月次祭でお装束をつけてここ、御結界につきました頃から、こうおかしいなあ。こう階段を上がるときにバタッとこう、えらい勢いで倒れたんです。それがその足が上がらないですね。力が抜けて来とる。それで座ったら第一手に力が抜けていく、足に力が抜けていく、生汗がスタスタこう流れてくる。これはおかしい。先だってからも、あの一、二回そういう事がございましたから、すぐ私は、退がらせて頂いたわけでございましたが。そのことを私は、神様にお願い。これはまあ、言うならば神様の御都合に間違いはないのだけれども、どうした御都合だったろうかと、こう私は感じたら「人間万事塞翁が馬」という御理解をいつか頂いた事がありますよね。その事を頂くんです、ね。私はあのう、思うんですけれども例えば、それが罪の為の罰であるとか、これはキリスト教では説きますね。罪と罰という事を、例えば仏教では、因縁また輪廻と言ったようなところから難儀の様相、難儀をキャッチしようとこうしとります。難儀というのは、因縁の為だ、輪廻の為だ。罪を作っておるから罰を受けるんだというふうに、ま、説きますね。ところが教祖金光大神はどう説いておられるかというとね。難は霊験と説いておられます。それはお前が罰かぶったんだというふうには説いておられないです。金光教のね、私はあのう、前代未聞とか開闢以来とかというふうに私が申します。そういうそのう、とらえ方在り方をこれ、それだけじゃありません。金光教の信心が卓越しておるという事は、そういう事だけじゃありませんけれども。教祖はそういう事ではない、ね。難は霊験だとこうおっしゃっておられる、ね。
「人間万事塞翁が馬」というのは、まあこれは人間万事、天地の中にはというふうに頂いたがいいでしょうね。天地の中にはそういう例えば、困った時とか難儀な事でもそれをおかげにせずにはおかんという働きがあるという事なんです、ね。
大変、馬好きの人が馬をかわいがっておった。ところがある日、その馬が突然いなくなった。はーもうおしい事をしたと言うて、悔やんでおったら、今だその馬が雌馬を連れて帰って来たと言うのである。はあこれはかえってよかったとこう言う。ところが息子がまた、大変馬好きで馬に乗って遊びよったところが、馬から落ちて怪我をしたと言うのである、ね。馬が帰って来なかったらこんな怪我もせんで済んだのにと、まあ思うところでございましょうけれども、その次に隣の国との戦争が始まった。その時、みんな若い者は、いわゆる召集されたけれども、その怪我をしとっておかげでね。召集されずに命びろいをしたというのが、この塞翁が馬、人間万事塞翁が馬という、ま、一つの例えのような言葉でしょう。これは支那の言葉ですからね。中国の、けども私はこれは、天地の中には総じてそういう一つの働きと言うものが、いつも私共の上にはあってるけれどもそれをそれと気付かんところに自分のような難儀な者は居らんと。幸、不幸をいつもこう、何て言うでしょうか。把握、人間の幸、不幸というものを把握出来てないでおるというのが、私はみんなの様相ではないかと思います。金光教の信心はどんな場合であっても幸福であるという行き方を本当の、言うなら天地の道理に基づいて説くのです。幸せと言う字が、上から読んでも幸せ、下から読んでも幸せと読めるように、どんな場合でも幸せを感じれれるような信心を常日頃、頂いとかなければいけんのです、ね。それをなら神様の御都合とこう言う。私が昨日、お祭り寸前にお祭りが仕えられなくなった。何か罰被ったじゃろうかというようなものではなくてです、ね。それこそ人間万事塞翁が馬だと、必ず神様の御都合があるんだと、ね。勿論、信心は日々の改まりが第一と仰せられますから、どうして例えば、おなかが痛むとしますか、胃が痛むとしますか。ははあ、夕べ飲み過ぎたけんでばいの、夕べ食べ過ぎったばいのと気がついたら、それを改めていくという事が大事です。例えば気がつかなかってもです。神様の御都合に間違いない。それは、ね。おかげを下さりろうとする。例えば、馬から落ちて怪我をした。どうした事じゃろうかじゃなくて、ま、それを大難は小難というような心で、御礼を言う事だけしか教祖は教えておられませんです、ね。難は霊験だとこうおっしゃる、ね。合楽ではそこを難はない。あるのは神愛だけだというふうに説くわけです、ね。人間万事塞翁が馬である。だからどういう場合であってもそれを因縁とか、罪とかと言ったような事に落ち込まずに、ね。いつでも御礼が言えれる心の状態を作っていく事を、様々な角度から道理に合うた、ね。なぜ御礼を言わなければならんのか、なぜ有り難いのかという事を、ま、説くわけであります、ね。段々皆さんが合楽で御理解を頂きよると、それこそこの松本先生じゃないけれども、ね。日本人同志の腹芸ならまだわかるけども、ね。英語で言うならベラベラしゃべっておってもです。その言語の言とでも申しましょうかね。私、腹芸という事はそうだと思う。言葉に言い表せない、ね。腹の中で物語っておる。腹で感じておる。それが通ずるとかわかる。合楽の場合にはそうです、ね。皆さんが御理解をこうやって頂いておられてもです。私が本当に言おうとしておる事は、言葉に出せない事もたくさんあるけれども、あれが親先生の腹芸だなと皆さんが分かっていかれるようになるところに合楽の魅力があると思うですね。いわゆる言語の言です、ね。そういうところから信心を進めて参りますと、もうそこにはあるものは神心だけしかないのです、ま、今日の御理解で言うと、ね。みんな参って来る氏子は、取り次ぎの先生を神様のように思って参ってくるから、ね。その先生がそれこそ、きちっとした裃を付けたような信心をしておかなきゃならん。人間を見下したり、ね。様子がいいから悪いからで区別を付けたりしてはならんと言うような、ま、御教えですけれども、ね。ここでそういう区別どころか、本当にその神心に接しれれるという事は、私は合楽の魅力だと思うです。だから皆さんもそういう頂き方をなさらなければならんと思うです、ね。そしてなら私が、昨日お祭りが仕えられなかった。人間万事塞翁が馬とわかる時に、もうどうして馬から落ちたじゃろうか、どうして怪我をさせろうかというのじゃなくて、やはり神様の御都合に違いはないのだから、御礼を申し上げる以外にはないという事になるでしょう。その御礼を申し上げる以外にはないというところまでです。この道の信心は高めていかなければ合楽で今、言われる。一切神愛論という事にはならんのです、ね。おかげを頂きましてね。一つ神様との対決においてです、ね。んならば、天地との交流を、わ、そういう意味です。そういう事です。天地との交流出来るような深い広い意味で天地との交流、そこから産みなされてくるおかげの世界。ただ、頼んでおかげ頂いたという世界でじゃない、ね。そこにおかげの世界があるのです。そういう世界に住みたいですね。
どうぞ。